自らの手で、社会を、政治を動かすとき ~今こそ呵責なき批判を!

弁護士小賀坂徹です。

ジョン・レノンの『イマジン』は、博愛主義の歌ではない。

「天国も地獄もなく、国境も宗教もなく、世界中の人々が平和に暮らしているところを想像してみよう。」というのは批判や言い争いをやめて、ひとつになろうと言っているのでは全然ない。

 この曲はベトナム戦争に対する極めて明瞭な反戦メッセージである。「殺すな」と訴えているのだ。その対象は直接的には米軍であり、より普遍的には殺される側から殺す側に対する叫びであり、闘いである。だからこそ、「今は夢想家と呼ばれるかもしれない、たった一人かもしれないけど、いつかそれが多数になって世界は一つになる」という決意で結ばれている(このアルバムに収録されている『兵隊にはなりたくない』『真実が欲しい』などは、もっとストレートな政治的メッセージとなっている)。こういう内容なので、『イマジン』はイラク戦争や9.11などの際、アメリカやイギリスで何度も放送禁止の憂き目にあっているのだ。

 ロックの主題に自立や解放が取り上げられることは多い。そして優れた楽曲は、単に「立ち上がれ」とか「解き放て」などという抽象的なスローガンやカタルシスを超えて、自分を縛る鎖の正体を見据え、そこに闘いを挑むこと、それしか方法はないことを教えてくれる。

 そう、困難の正体や原因を突き止め、そこに闘いを挑んでいくしか、自立も解放も、その先にある幸福にも到達できないのだ。そして、重い鎖から解き放たれた後どこに向かって進んでいくのか、焼き尽くされた荒野に何を建設するのかこそが問題なのだ。批判をやめるなんてことは、単なる奴隷の振る舞いでしかない。

 今、新型コロナウイルスの感染の蔓延の中で、ほとんどすべての人々が疲弊している。疲弊どころか、明日の生活が成り立つのか心配する人も少なくない。どうしてこうなってしまったのか。新たなウィルスが世界的に流行することは人為的なものではないだろう。しかし、現在直面させられている困難は多分に人為的なものだと思っている。未だにPCR検査が一向に広がらないのは何故か。オリンピックの延期が決まった途端に「オーバーシュート」だの「ロックダウン」などと言い始めたのは何故か。どうして未だに1円の援助さえもされていないのか。何故いつまでたっても休業と補償がセットにならないのか。これには必ず答えがあり、首謀者もいるはずだ。今の困難を乗り越え、前に進んでいくためには、こうした洞察が不可欠だと思う。原因の究明なくして、課題の克服などできようがないからだ。そして常に責任の所在を明確にしなければならない。

 でも、世の中には「今は争う時ではない」「一つになろう」という気味の悪い同調圧力が広がりつつある。

 田崎史郎の「(政府の方針が二転三転しても)今はこの政権で頑張ってもらう以外にないんで、とりあえず我々も協力しながらやっていく以外にないんじゃないかと思います」というあからさまな物言いは不愉快だが、まだ分かりやすい。厄介なのは次のような言説である。

「わかったことがある。

  新型コロナウイルスのことばかり聞いているのがつらいのではなかった。ずっと、誰かが誰かを責め立てている。これを感じるのがつらいのだ。」

「責めるな。じぶんのことをしろ。」

  これは糸井重里のツイートである。

 さすがである。田崎の無防備な、ある意味率直な物言いと違って、ここにはいろんな逃げ道が周到に用意されている。「責めるな」といいつつ、何を責めてはいけないのかについて何もいわないところがミソだ。「『責めるな』というのは政府の方針のことではない。電車の中や、ドラッグストアやスーパーでの言い争い、あるいは中国への根拠なき中傷のことを指しているのだ」などという具合に。でも、「責めるな」といいつつ、その対象を明らかにせず、抽象的にそれをいえばいうほど、それはより大きなもの、つまり為政者の振る舞いに結びつく。それに続けて『じぶんのことをしろ』となると、本音が透けて見えてしまう。逃げ道を用意するというより、本音を巧みにカモフラージュしているといった方が適切かもしれない。

糸井が小狡いのは、人に「責め立てるな」といいつつ、その言葉で、自分もまたひとを責める者を責め立てていることだ。糸井の言説は、誰も責めるなといいつつ、自分もそいつを責めているというパラドックスに陥っていて、それ自体無効である。しかし、彼は多分それを自覚している。自覚しつつ、それを悟らせないように巧みに人を誘導しているのだ。しかし問題は「責めることを責める」のではなく、何について責め(批判し)、意見をぶつけるのかである。

 糸井の言説については、映画評論家の町山智浩が「糸井重里さん、もうレトリックはいいですよ。言いたいことをはっきり、『庶民はお上に逆らうな』『政府に補償を求めるな』『マスク二枚で満足しろ』『お前らは犬だ』『奴隷だ』と言えばいいじゃないですか」と喝破したことに尽きているだろう。

 しかし、こうした言説は糸井に留まらず、何人かのミュージシャンやタレントが言い始めている。田崎や糸井などある意味旗色鮮明な面々以外に広がっているのが気味悪い。

だから、ここひと月ほどの動きを振り返っておきたい。

 安倍首相が、唐突に全国の学校を一斉に休業すると宣言したとき、彼はそのために仕事を休まざるを得ない保護者のことは全く念頭になかった。国会でも、「有給休暇を取得しやくするよう企業にお願いする」などとトンチンカンなことを言っていたほどだ。しかし、それが大きな世論の反発を呼び、休業補償の手立てがとられることになった。しかし、当初そこからフリーランスは除外されていた。これについても痛烈な批判があり、不十分ながらもフリーランスの人々に対する手当がなされるようになった。

 PCR検査がまったく進まないことに対する大きな批判があり、現在でも不十分ではあるが、それが徐々に拡大していった。

 一世帯30万円の給付では、多くの国民の救済にならず、かつ手続も煩瑣だという圧倒的な批判を受け、1人あたり10万円の給付に変わった。

 こうしたことは枚挙に暇がない。政府の決定に悉く批判をし続けてきたからこそ、不十分ながらも多少はまっとうなものに変わってきたのではないか。今は緊急時だから、とりあえず政府に従っておきましょうなどと言っていたら、ひたすら暗闇にむかって突き進むだけだったのではないか。

 批判こそが、そして反論こそが、よりましな政策決定の原動力となっていることを、僅か1か月の間に嫌というほど我々は実感してきたのではなかったか。正当な批判によって、よりましな政策が実現されていく。これこそが民主主義ではないか。為政者は、こうした批判に耳を傾けながら政策を立案する責任をおっている。批判するなら対案を出せというのは間違いだ。批判されることが嫌なのなら、さっさと下野すればいい。

 「責めるな。じぶんのことをしろ。」ではない。批判すべき対象を的確に見定めることこそ重要だ。そして、そこに呵責なき批判を浴びせることだ。その共感をどのように広げていくのか、それこそが問題なのだ。そうすれば社会は確実に変わる。変わってきている。

 最後に、清志郎のイマジンの訳詞、糸井のツイートに対する武田砂鉄の痛烈な皮肉、そして糸井自身が2012年、つまり原発事故1年後にしたツイートで締めくくりたい。

  夢かもしれない

  でも その夢を見てるのは

  きみ一人じゃない

  世界中にいるのさ (清志郎)

わかったことがある。

「商売が成り立たない」「これからどうしたらいいかわからない」「だから補償を」という悲鳴を、こうやって「責め立てている」なんて変換されるのがつらいのだ。(武田砂鉄)

そうか。犬も猫も告発したりじぶんこそが正義だといい募ったりしないんだ。

ああ、大好きだ、あなたたち。(糸井重里)

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