弁護士 小賀坂徹です。
8月21日の夕方、三ツ沢スタジアムで開催されたJ2リーグ横浜FC vs.清水エスパルスの試合を観戦した。
もちろん我が心の支え、エスパルスの応援のためである。
J2降格という屈辱を晴らすため、1シーズンでのJ1復帰がエスパルスの絶対的な至上命題であるが、
その視界は必ずしも良好とはいえず、正直毎週やきもきしながらの一喜一憂が続いている。
前週の愛媛戦もエース・テセの2得点で相手を2度突き放しながらも、その都度追いつかれて引き分けに終わっている(泣)。
対する横浜FCは、一時の不調から脱し、ここまで4連勝、しかも7戦負けなしと絶好調できているので、
ホームにエスパルスを迎えた闘いは、いやが上にも盛り上がっていることであろうとの思いでスタジアムに足を踏み入れた。
しかしその瞬間、目を疑う光景が繰り広げられていた。
スタジアムがエスパルスのホームゲームの様相だったのだ。
大袈裟に言っているのではまったくない。論より証拠、両チームのゴール裏の写真をみていただきたい。
(ホーム:横浜FC側)

(アウェイ:清水エスパルス側)
くり返すが、これは横浜FCのホームゲームであり、エスパルスはアウェイチームである。
しかし、どうみてもエスパルスのホームにしかみえないではないか。
メインスタンド、バックスタンドとも同様で、明らかにエスパルスサポーターの数が完全に上回っていた。
確かに東京・神奈川にもエスパルスのサポーターは多い(静岡出身者のサッカー愛はどこよりも深いのだ)が、多くは静岡から駆けつけたサポーターであろう。
隣県とはいえ、リーグ戦の1試合にこれだけのサポーターが大挙して押し寄せている光景は、掛け値なしに鳥肌ものだった。
感動した。
それにもまして心を動かされたのは彼らの『声』である。
もちろん、大人数でのコールに迫力あるのは当然なのだが、それ以上の『力』を感じた。
明らかに彼らは『本気の声』を出していた。
猛暑の中、連戦で闘っている選手たちを励まし奮い立たせようという気持ちは
、その本気の声とともにスタンドの真ん中にいたボクにもすぐに伝わってきた。
そして、それはキックオフ前から、ゲームが終了するまでずっと続いていたのだ。
これには本当に感動した。文字通り胸が熱くなった。
スタンドで観戦しているだけでもこんなに感動するのだから、ピッチで闘っている選手たちはどれほど勇気づけられただろうか。
これは物理的な『力』といっても過言ではないと感じた。
選手たちは間違いなく真剣にファイトしていたし、懸命に走っていた。
気持ちのこもったプレーを続けていた。
彼らの声に後押しされ、エスパルスは絶好調の横浜FCを完全に封じきり、2-0というこの上ない快勝だった。
J1への視界が完全に開けたことを感じさせる勝利だった。
このように人々の励ましの中で、より力を発揮するのはアスリートに限ったことではない。
ボクたちは、辛い毎日の中で、仲間の励ましや気遣いにどれほど支えられ、後押しされているだろうか。
人はお互いに励まし合い、助け合う『力』を備えている。
そして、その励ましを待っている人はたくさんいるのだ。
福島原発の被害にあって、長期の過酷な避難生活を続けている皆さんはまさにその典型だろう。
そして人を励ますことは、自らを励ますことと重なる。情けは人のためならず、であったりもする。
周りをよく見渡し、多くの人と共感し、共存していくこと、このことの大切さをエスパルスサポーターの皆さんに改めて教えられた気がする。
それほど感動的だった。
それにしても試合後のビールのうまかったこと。やっぱり応えられない。
弁護士 小賀坂徹です。
レディへ(Radiohead)の『ア・ムーン・シェイプト・プール』と一緒に、
実はノエル・ギャラガーの『チェイシング・イエスタデイ』も買っていた。
こちらは昨年リリースされたアルバムだけど、相変わらずの安定感であり、聴いてて嬉しくなる。
オアシス解散後のノエルとリアム・ギャラガーの音楽活動をみるにつけ、分かりきっていたことではあったが、オアシスはノエルだったということを嫌というほど思いしらされる。
オアシスはご承知のとおり、ギャラガー兄弟を中心に90年代初頭にデビューしたマンチェスター出身のバンドだが、
彼らはビートルズ、特にジョン・レノンに対するリスペクトをことある毎に口にしていた。
彼らの演奏する『アイ・アム・ザ・ウォーラス』なんかは出色である。
ボクが知らないだけかもしれないけど、イギリス(アメリカも同じ)の世界的ミュージシャンがビートルズ解散後、
ビートルズについて語ることは全くといい程ないか、逆にこき下ろすかのどちらかで、リスペクトしていることを堂々と表明するのはオアシスが初めてだったように思う。
ビートルズが余りに偉大で、同時代あるいは次世代のミュージシャンにとっては、それが克服の対象だったから、
仮にシンパシーを感じていたとしてもそれを口にすることをためらったのかもしれない。
ジョンが殺されて10年を経過して、漸くミュージシャン自身がその呪縛から解放されたのだろうか。
あるいは単純に世代的な「間隔」の問題かもしれない。
いずれにせよ、だから彼らがビートルズやジョン・レノンについて、いちファンとして語ることはとても新鮮で、嬉しかった。
そして、そのサウンドも初期のビートルズのようにロックの「開放感」を体現していて、心躍る感覚にさせてくれた。
オアシスは偉大なバンドとしてその地位を揺るがないものにしていたが
(特に日本のファンが多かったように思う。彼らの曲が何曲も日本の企業のCMに採用されていたことからもそれは明らかである)、
相も変わらずくり返される壮絶な兄弟喧嘩の果てに解散に至った。
冒頭書いたようにノエルがオアシスをきちんと引き継いでいることはありがたいが、
リアムの歌声やスタイルも捨てがたいボクとしては、もう一度2人が揃って演奏しているところを見てみたい欲求は捨てられない。
でも当分は無理そうだ。
レディへといいノエルといい、おっさんも頑張っているのである。
弁護士 小賀坂徹です。
かつては足繁く通っていたCDショップにほとんど行かなくなって何年ほどになるだろうか。
CDショップそのものの数も激減しているように思う。
そんな中、先日久しぶりに横浜のCDショップに行って、レディオヘッドのニューアルバム『ア・ムーン・シェイプト・プール』を買った。
ボクはロックミュージックに不可欠の要素は、
内省的であること、批判的(批評的)であること、社会性をもっていること、
言い換えれば自己と社会を対象化した上で表現活動が展開されていることだと思っている(もちろんエンターテイメントとして成立していることが前提だが)。
レディオヘッドというかトム・ヨークの音楽は内省的を遙かに超えて、
独自の精神世界を構築していて、聴く者をそこに引き寄せる強烈なベクトルをもっている。
そして、その世界にいざなわれることが、不安で憂鬱でありながらも何とも心地よいのだ。
『ア・ムーン・シェイプト・プール』はこれまで以上にオーケストラサウンドを効果的に駆使していて一種の安定感を感じさせる。
彼らは2000年に「ロックを捨てた」といった以降実験的なサウンドを作ってきたが、
本作は「ロック」への指向を感じさせる出来映えになっていて、ボクはとても好きなのだ。
このオープニング曲『burn the witch』は歌詞も意味深でメロディ、リズムともキャッチーなものに仕上がっており、
ミュージック・ビデオのクオリティもとても高い(ちなみに、このチェロの3重奏によるカヴァーもとてもいい)。
レディオヘッドの新曲「Burn The Witch」をチェロ三重奏でカバー
(クリックすると別ウィンドウが開きます。)
レディオヘッドは、今年のサマーソニックにヘッドライナーとして来日する。
サマソニに行きたくなってきた。