弁護士 小賀坂徹です。
8月27日、28日、毎年恒例の24時間テレビ-愛は地球を救う(日本テレビ)が、
今年もつつがなく放映されたようだ(「ようだ」と書いたのは、ボクはマラソンのゴールシーン以外ほとんど見てないので)。
24時間テレビが始まったのは、ボクが高校生の時だった。
テレビを通じたチャリティー企画というのは初めての試みだと思うが、
なぜボクが24時間テレビの第1回を記憶しているかというと、その時の総合司会が今年亡くなった大橋巨泉で、
彼はチャリティー番組の総合司会をやりながら、番組の最後に(チャリティーに意味はあるとしても)
「僕が言いたいのは、福田(赳夫)総理大臣を始め、政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやることだと思うんです。ですから、福祉国家を目指して良い政治をして頂きたいと思います」と発言したからなのだ。
チャリティーそのものは悪くないが、そこでの「善意」や「いい話」が政治の無策を覆い隠してしまうとすれば問題で、
そういううさん臭さをへそ曲がりなボクはどうしても感じてしまうので、大橋巨泉の本質を突いた言葉が今でも耳に残っているのだ。
それから30年以上この番組は続いているが、巨泉の言葉はなかったこととして扱われ(巨泉は第2回以降番組にかかわっていないはず)、
むしろ障害者を題材とした「感動」「いい話」のオンパレードにシフトしてきた。
しかし、今年はちょっとした「事件」が起こった。それは下記の番組が放映されたことだ。
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これは、27日午後7時から、24時間テレビのまさに裏でやってたNHKEテレのバリバラという番組で、
テーマは『検証! 障害者×感動の方程式』である。
これは凄い番組で、まだ観ていない人は、ネットで見れるうちに是非観てほしい。
司会者は冒頭から「今日は1年で一番障害者が取り上げられる日」と述べ、24時間テレビを十二分に意識して作った番組であることを告げる。
番組の出演者は、24時間テレビのものとそっくりのおそろいの黄色のTシャツを着て、しかもそこに「笑いは地球を救う」と書いてある。
さらに出演者の一人は、24時間テレビにも出演していた障害者のようで、まんま24時間テレビのTシャツを着ている。
司会者が何度「裏番組を批判する意図はない」といっても、24時間テレビをおちょくっていることが画面から伝わってくるのだ(もちろん、おちょくるというのはいい意味で、である)。
最初のコーナーでは、「感動ドキュメントの作り方」が検証される。
これが秀逸で、主人公の障害者の発言のチョイス、ナレーションのトーンと内容、BGMの選択等々、
すべて予め用意された感動ストーリを描く「部分」として制作され、そこから外れた余計なものは全部除かれる。
例えば、主人公はかつて著名なスポーツ選手だったが、その後難病に罹り再起不能となった場面で、ディレクターは「この時は大変だったでしょう」と話を向けると、
主人公は「いや、そうでも。それより担当医がもの凄いイケメンでめっちゃテンション上がりました。」と答えると、
ディレクターは「その話いらないです。」といって、そのシーンをばっさりカットするという具合だ。
番組は、テーマのとおり「障害者×感動の方程式」を検証していく。
その中心にあるのは、オーストラリアのジャーナリスト兼コメディアンのステラ・ヤングさん(故人)の提唱した「感動ポルノ」という視点だ(末尾参照)。
「感動ポルノ」というのは、障害者を健常者の勇気や感動を与える道具=モノとして扱うことを指している。
「不幸でかわいそう×健気に頑張る=感動」という方程式、障害者をその方程式の中に閉じ込めて描くことそのものが「感動ポルノ」なのだという視座である。
「感動ポルノ」は、障害者を不幸でかわいそうであわれな存在と扱うことで初めて成立する。
視聴者は自然に障害者を上から見下ろし、あわれでかわいそうな障害者が、困難を乗り越えていく様に心を許し涙を流すのである。
「自分の人生はサイテーだが、まだ下には下がいる」、そういう前提のカタルシスだ。
こうした扱いを障害者が受容できるはずはない。
番組のアンケートでは、障害者の9割がこうした感動話に対する拒絶反応を示している。
残りの1割も「愉快ではないが、取り上げられるだけまだまし」というものだから、ほぼ全員が拒絶しているといっていいだろう。
「お前は奴隷だけど、その割に頑張ってるじゃん」といわれて喜ぶヤツがいるわけないのだ(このことから分かるのは、製作者サイドに障害者が不在であるということだ。だから障害者の視点は番組に反映されない)。
24時間テレビの感動の方程式は、まさにこういうものだ。
障害者はただ普通に生きてるだけ、障害者はみな立派ではない、こうした当たり前の視座は24時間テレビから伝わることはない。
そして、それは現状の無条件の追認でしかなく、障害者のありようを本質的に変えていく力には絶対にならない。
ステラさんがいみじくも「障害者が乗り越えなければならないことは、自分たちの体や病気でなく、障害者を特別視し、モノとして扱う社会である」「障害者がいくら感動を振りまいても、階段はスロープに変わらない」と述べるとおりである。
感動の方程式で結局特をするのは、障害者政策をますます貧困化させ、障害者を社会から孤立させようとしている国家権力(政治)の側だ。
今の政治が「障害者自立支援法」などで、障害者に対して社会(政治)が支援することを極力減らし、
障害者の「自己責任」に矮小化しようとする動きと、感動の方程式は見事に呼応している。
全国心臓病の子どもを守る会事務局次長 水谷幸司さんに聞く—障害者自立支援法案の問題点
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「かわいそうな障害者がこんなに頑張っている。感動して泣けた。(明日から自分も頑張ろう。)」
これでは、障害者のおかれている社会的状況、および彼らの困難の本質は何か、改善の方向性は何かということに一切目は向かない。
「あんなにつらいのに頑張ってて偉いなあ。泣けるわぁ-以上」では、ステラさんがいう「社会の側の壁」の存在に、まったく触れずに終わってしまう。
まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている」(ゲーテ『ファウスト』)のである。
これが進むと、障害者は頑張って当たり前、困難を乗り越えようとする「美しい」努力をするのが当たり前という風潮を助長する。
その反作用として、「お前、障害者のくせに、なんで頑張らないんだ。」「そんな奴が税金を無駄に使ってんじゃねーぞ」という空気を醸成しないだろうか。
こういう風潮と津久井山ゆり園殺人事件とは無関係といえないのではないか。そんなことを強く思う。
この番組を企画・立案した人は本物のジャーナリストだと思う。
まさに現状に疑問を呈し(時には批判し)、こうした本質的な問題提起を行うことこそジャーナリズムの本質に他ならないと思う。
自由度が少なくなっているNHKで、よくここまでできたと思う。素晴らしい。
とともに、この番組やステラさんが突き付けた「感動ポルノ」を、ボクたち一人一人が対象化していくことがとても重要だと思う。
*ステラ・ヤング-障害者は感動ポルノとして健常者に「消費」される
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弁護士 小賀坂徹です。
核兵器を持つことによって核兵器を使わせない力とする、これが「核抑止力」。
つまり他国に対して、「お前が核を使ったらこっちは倍にして返してやるからな」と脅して、
相手に核を使わせないようにするという理屈。
したがって、相手よりもより優位な力を誇示できなければこの理屈は通用せず、際限なき核軍拡競争に発展していかざるを得ないことになる。
この「核抑止力」論に立った場合、核は常に使える兵器でなければならないことになる。
いつでも核を使えるという前提に立たなければ「抑止」が成り立たないからだ。
核を使わせないために、核をいつでも使える状態にしておくということを、
すべての核保有国が相互にしているのであれば、これは文字通りの「一触即発」の状態といっていい。
これが現実の世界である。このように私たちは地球を滅ぼす核戦争の脅威と隣合わせで生活しているのだ。
ここから脱却するためには、「核抑止力」の呪縛を捨て去り、核兵器の即時廃絶の道に踏み出すしかない。
そのロードマップの作成こそ、世界の叡智を結集して行われなければならない最優先課題だ。
ところで世界最大の核保有国であり、世界で唯一原子爆弾を2度投下した米国のオバマ大統領が核の先制不使用を検討していることに対し、
世界で唯一原子爆弾を2度投下された我が国の首相は「抑止力が弱体化する」との懸念を米国に伝えたと、ワシントン・ポスト紙が15日に報じている。
安倍首相はこのことを否定しているようだが、日本政府は一貫として「核抑止力」論の立場にたっており、
核廃絶も「究極の目標」として遙か彼方に追いやり、
国連総会では、毎年、圧倒的多数で採択されている核兵器禁止条約の国際交渉開始を求める決議についても20年連続で「棄権」していることからすると、
安倍首相の核先制不使用に対する懸念表明は、相当の根拠があると思わざるを得ない。
核の先制不使用は核兵器即時廃絶とはほど遠いが、しかし核を使えない兵器とする「始めの一歩」としての意味はあろう。
特に世界最大の核保有国である米国が宣言する意義は小さくない。
核を使った側の米国の核の先制不使用について、核を使われた側の我が国の首相が懸念を表明するなどということはマンガを通り越して犯罪的といっていいのではないか。
結局のところ「核抑止力」はいつでも使える核の存在を前提とするのであり、その立場に立つ以上、核兵器の存続を求めるしかないのだ。
新しい防衛大臣も、新たな東京都知事も、我が国の核保有は選択肢のひとつといって憚らない女性である。
71回目の原爆忌の直後の核先制不使用懸念報道に触れ、こういう政治家が跋扈するのはさもありなんと思った。
「核抑止力」からの決別、これこそ世界の歩む道であり、本来であれば我が国がそれをリードしていかなければならない。
今からでも遅くない、と強く思う。
弁護士 小賀坂徹です。
8月21日の夕方、三ツ沢スタジアムで開催されたJ2リーグ横浜FC vs.清水エスパルスの試合を観戦した。
もちろん我が心の支え、エスパルスの応援のためである。
J2降格という屈辱を晴らすため、1シーズンでのJ1復帰がエスパルスの絶対的な至上命題であるが、
その視界は必ずしも良好とはいえず、正直毎週やきもきしながらの一喜一憂が続いている。
前週の愛媛戦もエース・テセの2得点で相手を2度突き放しながらも、その都度追いつかれて引き分けに終わっている(泣)。
対する横浜FCは、一時の不調から脱し、ここまで4連勝、しかも7戦負けなしと絶好調できているので、
ホームにエスパルスを迎えた闘いは、いやが上にも盛り上がっていることであろうとの思いでスタジアムに足を踏み入れた。
しかしその瞬間、目を疑う光景が繰り広げられていた。
スタジアムがエスパルスのホームゲームの様相だったのだ。
大袈裟に言っているのではまったくない。論より証拠、両チームのゴール裏の写真をみていただきたい。
(ホーム:横浜FC側)
(アウェイ:清水エスパルス側)
くり返すが、これは横浜FCのホームゲームであり、エスパルスはアウェイチームである。
しかし、どうみてもエスパルスのホームにしかみえないではないか。
メインスタンド、バックスタンドとも同様で、明らかにエスパルスサポーターの数が完全に上回っていた。
確かに東京・神奈川にもエスパルスのサポーターは多い(静岡出身者のサッカー愛はどこよりも深いのだ)が、多くは静岡から駆けつけたサポーターであろう。
隣県とはいえ、リーグ戦の1試合にこれだけのサポーターが大挙して押し寄せている光景は、掛け値なしに鳥肌ものだった。
感動した。
それにもまして心を動かされたのは彼らの『声』である。
もちろん、大人数でのコールに迫力あるのは当然なのだが、それ以上の『力』を感じた。
明らかに彼らは『本気の声』を出していた。
猛暑の中、連戦で闘っている選手たちを励まし奮い立たせようという気持ちは
、その本気の声とともにスタンドの真ん中にいたボクにもすぐに伝わってきた。
そして、それはキックオフ前から、ゲームが終了するまでずっと続いていたのだ。
これには本当に感動した。文字通り胸が熱くなった。
スタンドで観戦しているだけでもこんなに感動するのだから、ピッチで闘っている選手たちはどれほど勇気づけられただろうか。
これは物理的な『力』といっても過言ではないと感じた。
選手たちは間違いなく真剣にファイトしていたし、懸命に走っていた。
気持ちのこもったプレーを続けていた。
彼らの声に後押しされ、エスパルスは絶好調の横浜FCを完全に封じきり、2-0というこの上ない快勝だった。
J1への視界が完全に開けたことを感じさせる勝利だった。
このように人々の励ましの中で、より力を発揮するのはアスリートに限ったことではない。
ボクたちは、辛い毎日の中で、仲間の励ましや気遣いにどれほど支えられ、後押しされているだろうか。
人はお互いに励まし合い、助け合う『力』を備えている。
そして、その励ましを待っている人はたくさんいるのだ。
福島原発の被害にあって、長期の過酷な避難生活を続けている皆さんはまさにその典型だろう。
そして人を励ますことは、自らを励ますことと重なる。情けは人のためならず、であったりもする。
周りをよく見渡し、多くの人と共感し、共存していくこと、このことの大切さをエスパルスサポーターの皆さんに改めて教えられた気がする。
それほど感動的だった。
それにしても試合後のビールのうまかったこと。やっぱり応えられない。